安来市名誉市民

安来市名誉市民とは

公共福祉の増進、産業・文化の進展、自治の発展に貢献し、その功績が卓絶で市民の尊敬の対象となる方に贈る称号です。

合併10周年の節目に、市民の代表で構成する選考審議会で審議を重ね、時を経ても輝きを失うことのない偉大な功績を遺した5人の方を選定しました。

  • 選定日:平成26年10月4日

【補足】紹介は生年月日順

 安来市名誉市民章

米原雲海氏(本名・米原幸太郎)

米原雲海氏(本名・米原幸太郎)の写真

【明治2年8月22日生~大正14年3月25日没】

明治2年、安来町新町の漁業木山家に生まれ、16歳で米原家の養子となる。本名は幸太郎で雲海はその号。小学校卒業後、宮大工に弟子入りし建築彫刻を学ぶ。

明治23年に上京し木彫界の巨匠高村光雲の門に入ると、3年のうちに展覧会入賞を果たし、26年に帰郷してからも中央の彫刻展で入賞を重ねる。安来町松源寺山門の仁王像は、この頃に松江の荒川亀斎と共作したもの。

明治28年には東京美術学校助教授に招かれ再び上京するが、制作に専念するため2年で辞職。東京国立博物館に野外展示される「ジェンナー像」の制作では、初めて西洋彫刻の技法「比例コンパス」を用い、木彫界に大きな発展をもたらした。明治30年代にはパリ世界博覧会入賞をはじめ数多の功績をあげ、名声は一段と高まる。一方では、多くの門弟を輩出し、展覧会の審査員を務めるなど後進の育成にも注力した。

明治41年には岡倉天心の知遇を得て日本彫刻会を結成し、伝統的な日本彫刻を基に東洋趣味を表現する作風を確立。「月」「竹取翁」「仙丹」などの代表作はこの頃の作品である。大正期には松江城の松平直政公像、長野市善光寺の仁王像、明治神宮の獅子狛犬などの大作にも取り組んだ。病のため55歳で永眠。師光雲が「自分の片腕を奪われた」と惜しむ逸材であった。

伊達源一郎氏

伊達源一郎氏の写真

【明治7年3月15日生~昭和36年7月15日没】

明治7年、能義郡井尻村に生まれる。同志社大学政治科を卒業後、明治33年に上京し国民新聞に入社。45年に編集局長となる。

大正4年に国際通信社報道部長、次いで7年に読売新聞主筆に就任。この際、日本全権随員としてパリ平和会議に参加した後、外務省嘱託として省内に情報部を創設。大正9年、東方通信社を設立すると、15年には国際通信社と合併し日本新聞連合を発足させ理事に就任。昭和2年にジュネーブで開かれた国際新聞専門家会議では、日本代表として手腕を発揮する。昭和6年に国民新聞社長、翌年にはジャパンタイムズ社長を歴任し、日本の新聞界に多大な足跡を残した。

戦後、昭和21年に島根新聞社長に迎えられ、28年までの在任中、22年の第1回参議院議員選挙に当選。昭和26年のサンフランシスコ講和会議では、吉田茂首相の要請により全権委員代理として各国記者団の対応にあたった。

一方では青年育成の重要性を説き、大正5年には日本青年団の前身となる中央報徳会青年部を組織。また、井尻村の旧宅を地元の青年に開放し、戦後は公民館として寄贈するなど郷里へも貢献している。

鳥類研究家としても著名であり、世界で収集した1600点以上の鳥類標本は、県立三瓶自然館に所蔵されている。

初代渡部お糸氏(本名・渡部イト)

初代渡部お糸氏(本名・渡部イト)の写真

【明治9年11月6日生~昭和29年3月27日没】

明治9年、安来町に生まれ、幼少の頃から安来節を習い覚える。成長するにつれて天性ともいうべき美声に一段と磨きがかかり、お糸が唄う安来節は人々を魅了し、その名前は巷に知れ渡る。

大正期に入り、各地での催しに出演し、ますますその名声を高めるとともにレコードの吹き込みも行い、安来節を全国に紹介する。

そして、お糸を中心とした安来節一行は東京での一流寄席に出演、あるいは関西方面の寄席界にも進出巡業をし、大盛況をあげるようになった。これにより東京、大阪には安来節専門の舞台が生まれるなど、その唄と踊りは日本の民謡界において大きな地位を確立し、出雲に安来節ありと全国に知らしめた。

また、巡業一座とともに各地を回り、安来節を広めるとともに当時の台湾、朝鮮、満州にも巡業の足を延ばすなど国内外において活躍し、一地方の民謡を格調高い日本を代表する民謡として位置付ける多大な貢献をした。一方、聴衆のアドバイスをも取り入れて改良を加え、お糸節ともいわれる今日の正調安来節を生み出した。

安来節保存会においても、初代家元の地位にあって正調安来節の宣伝普及と後継者の指導育成に努めるなど、その一生を安来節に捧げ、今日の隆盛の基盤づくりに努めた。

河井寛次郎氏

河井寛次郎氏の写真

【明治23年8月24日生~昭和41年11月18日没】

明治23年、安来町生まれ。島根県立第一中学校を卒業すると陶芸家を志し、東京高等工業学校に入学。窯業科学に関する基礎を学んだ後、京都市陶磁器試験場の技手を経て独立し、陶芸創作活動への道を歩む。

大正9年、京都五条坂に「鐘渓窯」を開き、さらに研鑽を重ね、中国陶磁器等に関する新しい知見を加えて、青磁や辰砂、天目をはじめとする多彩で、しかも高い技術を駆使した作品を次々と発表し、作陶家としての地歩を固めた。

その後、李朝陶磁に見られるような無名の生活陶器に強く心ひかれ、志を共にする仲間と民芸運動を展開し、従来の伝統様式を脱し、技巧を抑えた自然なつくりによって民芸の実践を試み、用と美の調和をはかった独自の陶芸を完成させた。そして、民芸にとらわれない自由な創作に入り、斬新で明るく、変化に富んだ作品を次々と世に送り出した。

この間、数えきれないほどの作品展を開催し、多くの人々に感銘を与えた。特に、昭和12年のパリ万国博覧会、昭和32年のミラノ・トリエンナーレ展ではグランプリを受賞するなど世界的にもその名声を馳せた。

一方、人間の表情を巧みに表した木彫作品など、その多彩な造形は多くの人々を魅了した。また、多くの著書も残している。

櫻内義雄氏

櫻内義雄氏の写真

【明治45年5月8日生~平成15年7月5日没】

明治45年、広瀬町出身で商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを歴任した櫻内幸雄の次男として生まれる。慶応義塾大学経済学部を卒業後、会社員を経て応召。兵役免除後の昭和15年から父幸雄の秘書として政治家の道を歩みだす。

昭和22年の衆議院議員選挙において、東京一区から34歳で初当選。その後、父幸雄の志を継ぎ、郷里島根県から立候補した参議院議員選挙で当選。次ぐ昭和27年の衆議院議員選挙でも島根県から出馬し当選以降、連続18回の当選を果たした。

その間、池田内閣で通商産業大臣として初入閣し、佐藤内閣で通商産業大臣、田中内閣で農林大臣、福田内閣で建設大臣と国土庁長官、鈴木内閣で外務大臣等の要職を歴任したほか、平成2年には三権の長の一席である衆議院議長に就任。

一方、自由民主党の幹事長、政務調査会長、顧問等の重責に就任し、常に国政の中核にあって日本国発展のため尽力した。

さらにはスポーツ、文化、芸術分野においても幅広い要職を歴任し、その振興に寄与した。

このページに関するお問い合わせ

政策推進部政策秘書課

郵便番号:692-8686
住所:島根県安来市安来町878-2(安来庁舎)
電話:0854-23-3010
ファックス:0854-23-3161
メールアドレス:hisho@city.yasugi.shimane.jp
(メールアドレスの「@」は半角「@」に書き換えてください。)

総務部総務課

郵便番号:692-8686
住所:島根県安来市安来町878-2(安来庁舎)
電話:0854-23-3015
ファックス:0854-23-3152
メールアドレス:soumu@city.yasugi.shimane.jp
(メールアドレスの「@」は半角「@」に書き換えてください。)