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戦国の覇者・尼子盛衰記をめぐる
出雲地方一帯を、戦国の世の長きに渡り率いてきた尼子一族。居城となった月山富田城をはじめ、一度は滅ぼされながらも名参謀・山中鹿介の手により企てられた再興計画の足跡まで、毛利により完全に滅亡させられるまでの栄華の歴史を詳しく振り返ります。

尼子盛衰記
山陰・山陽十一カ国に号令した、戦国の覇者・尼子氏物語。
【わかりやすい】尼子・山中鹿介(やまなかしかのすけ)・富田城・毛利
尼子盛衰記を分かりやすく解説しています。次の紙芝居「山中鹿介」もぜひご覧ください。
紙芝居「山中鹿介」
一度滅ぼされた尼子氏の再興に夢をかけ、三十四年の生涯を強い心と行動力でひたすらに生き抜いた一人の若者「山中鹿介」の物語をWeb紙芝居でご覧いただけます。
富田(とだ)城略年表
※文治元年(1185)〜慶長16年(1611)

●史跡ガイドマップ

所在地:島根県安来市広瀬町富田
お車でいらっしゃった方は、地図上S近くの広瀬絣センター前駐車場をご利用ください。



●1.月山富田城跡


●2.七曲がり
山中御殿から山頂への登山道。大きなカーブがいくつも続くためにこう呼ばれている。

●3.山中鹿介幸盛記念碑
月山山頂本丸跡に建つ。ここからの眺望は格別。明治44年、幸盛の330年忌を記念して建てられた。

●4.勝日高守神社
保元平治の頃(1156〜1159)平家の武将平景清が出雲に入り、月山に築城するに当たってお社があっては畏れ多いと里宮をうつしたのが富田八幡宮(矢たて松の伝説)。現在山頂の勝日高守神社は里宮に対して奥宮。祭礼は春夏2回。

●5.新宮党館跡
新宮党は、尼子氏の強力な一門であったが、毛利氏に謀られた富田城主晴久によって天文23年(1554)滅ぼされた。尼子経久の二男国久、その子誠久、豊久、敬久の墓とともに太夫神社の祠がある。

●6.毛利元秋の墓
宗松寺跡の奥、竹薮の中にあるのが毛利元秋の墓。元秋は毛利元就の五男で、天正年間(1573〜1591)天野隆重に推されて富田城主となったが、天正13年(1585)富田城中で病死した。

●7.山中鹿介幸盛生誕の地
鹿介の生誕地については異説があるが、山中家は尼子家の分かれであることから古文書、系図等の調査によってここが生誕地と定められている。鹿介は天文14年(1545)8月15日、父満幸、母なみ(立原佐渡守綱重の娘)の次男として生まれた。

●8.塩冶掃部介の墓(荒法師)
塩冶掃部介は尼子経久が京極氏から追放を受けた後、富田城の目代として入城したが、文明18年(1486)元旦、尼子経久の奇襲を受け、富田城内で討たれた。俗に荒法師とよばれ、昔からこの墓をみだりに荒らすと必ずたたりがあるといわれている。

●9.山中御殿(御殿平)
大手門をあがったところに石垣に囲まれた3000平方メートルあまりの平地がある。ここを御殿平という。上下2段にわかれていて、富田城の最も重要な心臓部だったと考えられる。

●10.尼子氏奥都城
尼子氏一族の墓所とされているところ。尼子一門で、新宮党の末裔にあたる久富二六氏が祖先の地新宮谷を訪れ、尼子時代の尼子の夢をこの碑に託し、昭和16年(1941)この地に建立した。

●11.城安寺
広瀬藩松平氏菩提寺。臨済宗南禅寺派の禅刹。正和年間(1312〜1316)僧源翁の開基。脇立の多聞天、広目天はともに鎌倉時代の作で重要文化財に指定されている。また所蔵の富田城下町絵図、尼子十勇士絵巻は有名。

●12.松平直諒の墓(お墓山)
寛文6年(1666)、広瀬藩が創設され、その後広瀬松平藩は十代の藩主がつづいた。ほとんどの藩主か江戸住まいであったが、文久元年(1861)9代藩主松平直諒だけはたまたま帰藩中広瀬で没した

●13.堀尾吉晴の墓
関ヶ原の戦功により雲隠24万石を領し、慶長5年(1600)に富田城主となったが、慶長16年(1611)、城を松江に移した。同年6月17日、69歳で亡くなり、遺言によってこの地に帰葬された。

●14.花の壇
1994年の発掘調査で見つかった2棟の建物跡を参考にして、当時の侍所、郭を再現。当時の景観を体験できる場所として開放している。

●15.巌倉寺
真言宗。文治3年(1187)、高顕僧正によって現位置に移された。これは富田城築城と相前後するもので、おそらく城主の意思によって城内の祈願所とするとともに富田城外郭線の守りとしたものと思われる。

●16.山中鹿介幸盛の銅像
主君尼子義久が永禄9年(1566)11月、毛利に敗れた後、尼子勝久を擁して富田城奪回、尼子再興を期して孤軍奮闘の活躍をしたが、天正6年(1578)7月17日、夢ならず備中甲部川阿井の渡し(岡山県高梁市)において毛利の家臣、河村新左衛門、福間彦右衛門によって討たれ、34年の生涯を終えた。この銅像は昭和53年(1978)鹿介没して400年を記念して建立された

●17.山中鹿介幸盛供養塔
巌倉寺堀尾吉晴の墓の左側に山中鹿介の供養塔がある。

●18.尼子晴久の墓
晴久は経久の孫にあたり、父政久が戦死した後、経久から家督を相続した。しかし毛利軍が富田城に肉薄しようとした永禄3年(1560)城内で急死した。

●19.大手門跡
御子守口から山中御殿に至ると、石垣が大きく口を開けている所がある。ここが富田城の大手門跡といわれるところで、幅約15メートル、高さ約4.5メートルもあり、巨大な表門の存在をしのばせている。

●20.尼子興久の墓
経久の三男。禄高の不足を父経久に訴え、これを聞き入れられなかったことから父にそむいたため、やがて父経久の手によって追放された。天文3年(1534)妻の実家にあたる備後甲山城主山内大和守直通方に身を寄せ、そこで切腹した。

●21.川中島一騎討ちの碑
昔は富田川の中州があったところ。永禄8年(1565)尼子の勇将山中鹿介幸盛と毛利方益田越中守の家臣品川大膳(木狼介勝盛)とが一騎討ちを行い、鹿介が大膳の首級をあげた場所といわれている。

●22.品川大膳の墓
永禄8年(1565)尼子の武将山中鹿介幸盛と川中島において一騎討ちを行った毛利方益田越中守の家臣品川大膳は鹿介に勝るとも劣らない猛将だった。不運にも鹿介に敗れ、あえない最期をこの地でとげた。

●23.尼子清貞(定)・経久の墓(洞光寺)
洞光寺の開基は尼子清貞・経久父子とされる。両公の墓は本堂横、墓地中央正面に墓石が安置されている。
24.富田(とだ)八幡宮
保元平治の頃(1156〜1159)平家の武将平景清が富田城築城にあたって月山山頂にあった社を現在の八幡山に移したといわれている。参道は苔むした石畳が両脇の杉、欅の大樹に覆われ、森厳さを保っている。

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